鍼灸の歴史

日本における鍼灸の始まり 

『日本書紀』(720)の中で仁徳天皇(313-399)の子にあたる允恭(いんぎょう)天皇(412-453)が病になったときに鍼灸の治療を受けたのではないかという学者もいます。

飛鳥時代

欽明天皇(552)の時代に中国(呉)から『鍼灸明堂図』などの鍼灸に関する医学書が日本にもたらされました。

奈良時代 

日本において鍼灸が行われていた事がはっきり出てくるのは「医疾令」が初めです。「医疾令」とは日本で一番古い医療の制度のことで、奈良時代に天武天皇が発した「大宝律令」の中に制定されています。つまりに当時の日本の政府の中でしっかりと鍼灸という地位が確立しており、鍼灸という医療が広く行われていた事が分かります。(広くと言っても貴族階級だけだったと思いますが…)

この「医疾令」の中で「医針の生(医学生と針学生)は各々経を分かちて業を分けよ。医学生は『甲乙経』、『脈経』、『本草』を習え。兼ねて『小品方』、『集験方』を習え。針生(針学生)は『素問』、『黄帝針経』、『明堂』、『脈訣』を習え。兼ねて流注、偃側等の図、赤烏神針等を習え。」とあります。『甲乙経』『脈経』『素問』『黄帝針経』『明堂』『脈訣』などは本の名前なのですが、現在の鍼灸師である私達も読んでいる本です。

平安時代

日本で書かれた最古の医学書である『医心方』(丹波康頼著)が永観2年(984)に完成し、今日の鍼灸指導書の基となっています。ちなみに著者の丹波康頼は俳優の丹波哲郎の祖先なんですよ~!丹波家は康頼以降、千年にわたり朝廷の侍医の座を守り続けたそうです。

鎌倉時代

鎌倉時代には中国から仏教が盛んに伝来しました。この時代に日本に渡ってくる僧侶はそれなりの学識者である事が想像できますし、当時の学識者である僧侶が鍼灸の知識を兼ね備えていた事は想像できます。また鎌倉時代は庶民でも簡単に手に入るもぐさを使ったお灸療法が盛んに行われ、現在でもその流れを続けるお灸寺が日本各所に残っています。

室町時代

室町時代に活躍した医師に田代三喜という人がいます。三喜は臨済宗の僧で中国(明)に渡り医学を学び曲直瀬道三を指導しました。曲直瀬道三は将軍足利義藤を診察し、その後も数々の武将の診療を行ったそうです。毛利元就が在陣中に病にた時に治療し、織田信長の診察も行った記録が残っています。

安土桃山時代

この時代に大活躍したのは何と言っても豊臣秀吉です。秀吉も織田信長の治療を行った曲直瀬道三の治療は受けていたと思われます。そして秀吉といえばお灸が大好きだった事で有名です。そもそも信長の時代より伊吹山を薬草山とし、もぐさを米の代わりに年貢として納めさせていたほどです。前田利家とお灸のしあいっこをしたという記述や、秀吉直筆のお灸に関する手紙が数多く残されています。

江戸時代 

江戸時代に活躍した盲目の鍼灸師に杉山和一という人がいます。和一は5代将軍綱吉の時代に鍼灸の講習所を設け、多くの視力障害者にも鍼灸の育成を行ったそうです。また杉山和一が出世したきっかけに、時の将軍、常憲公のノイロ-ゼを治したという記録があります。
江戸時代には印刷技術も発達し多くの医学書が発行されました。とにかく時代が安定していますので色々な文化や学問が発達しました。しかし、江戸時代後期になりますとオランダ医学が入ってきて、漢方医学は衰退し始めます。『解体新書』を書いた杉田玄白も、元々は漢方医学を学んでいたんですよ~。「肝臓」とか「腎臓」など、ほとんどの臓器の名前は、漢方医学を学んでいた杉田玄白が、漢方医学の用語をそのまま臓器の名前にしたのです。

明治時代

西洋医学が主流を占めるようになり、法律が改正され「鍼治、灸治ヲ業トスル者ハ、内、外科医ノ指図ヲ受クルニアラザレバ施術スベカラズ」と規定され、鍼灸は視覚障害者の職業として残りましたが、法的には鍼灸医術は民間療法にとなり今までの地位を失いました。しかし明治35年以降先覚医学者たちはその治療効果を認め、内務省当局は、明治44年に省令「鍼術、灸術、取締規則」を制定し、免許資格を取得するに至りました。お灸治療は民間療法として各地で継続されました。